道化語録

文学を学ぶ学生ですが主に文学以外のことを書きます

本阿弥光悦の大宇宙

東京国立博物館で開催されている「本阿弥光悦の大宇宙」という展覧会に行った。

 

私の先生の一人が、光悦は日本で最も優れた芸術家だと言っていたのを思い出したので。

 

それもうなずける話だと思った。

活躍した領域の広さにおいては、光悦のような万能人は歴史上そうそういないのではないだろうか?

 

塗り物や焼き物、本の装丁(というのが適切かはわからないが、歌集や謡曲の本の表紙の絵などの作成)や、写経や刀の装飾まで何でもござれという感じだ。

職人であると同時に教養の塊の芸術家だと思った。

 

以前このブログに書いたことと少し重なるけれど、展覧会場の美術品の多くは元々は展覧会用に作られていない。ことに今回の光悦の作品は、武器だったり茶道具だったり本だったり、それぞれ使い道がある物として作られたはずだ。

 

しかし、展覧会に行くといつも気になるのが、これらの美しい品々が、実際にどの程度「使われたのか?」という問題である。

 

名高い名刀正宗も展示してあったが、これは人を斬るのに本当に使われたのだろうか?

また懐刀の類は切腹のためだと思うのだが、血を拭った後に忌避されたりしなかったのだろうか?

 

お経や謡や歌の本を写す時、芸術家達や読者たちはどこまで内容を理解していたのだろうか?

 

……このように知りたいことが沢山あるのだけれど、誰に聞いたら良いのかわからず、いつも悶々としている。

 

 

 

三味線やくざ

ひさしぶりに浅草の木馬亭浪曲を聴いた。

 

ユーモアもまじえつつ語ってくれるけれど、やはり話芸そのものの明晰さという点では、間に挟まれた講談に一日の長があるな、と思った。

 

浪曲はうなるので時に言葉が聞き取れない箇所がある。しかしそれでも、語り物でありながらも全体的に言葉遣いが、現代の観客からすれば韻文的で美しくも感じられるということがよく伝わって来た。

「夢がうつつか、うつつが夢か」などの77リズムの短い言い回しに、民間信仰的な思想を読み取ることもできるだろう。

 

その日聞いた中で特に面白かったのは、鳳舞衣子さんの「三味線やくざ」という演目だった。

聴いているとなぜかアウトローの気持ちがよくわかる気がする。

 

木馬亭の客席はそれなりに盛況だった。

演者の玉川太福さんによると、十数年前は客もまばらだったという。

客が増えたということは、アウトローに共感する人がその間に増えたということかもしれないと思った。

 

三島由紀夫『サド侯爵夫人』 サラダボール公演 こまばアゴラ劇場

三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』の公演があるから見てきた。

 

サラダボールという四国の劇団についてはよく知らなかった。

けれど、あまり貴族と思えない雰囲気の日常的な会話で1幕が始まった時は少々暗澹とした気持ちになった。

が、その導入も激しいクライマックスへの布石だったのだと思う。2幕と3幕と見続けて最後は震えが止まらなかった。

賛否両論分かれるであろう舞台装置に関しても、個人的には好感が持てた。

牢獄の中のサドがエクリチュールを通して読者(サド侯爵夫人ルネ)を悪の結晶の中に閉じ込めてしまう様子が可視化されていたので。

観客の顔が映り込んでしまうのも、見る見られるの革命的な主客転倒が起こるというか、サドらしい二義性を感じさせて興味深い。

1960年代、若者の反乱の季節ならではの作品であると思うが、同時に文学史演劇史上の金字塔とも言える名作戯曲だと思う。

 

展覧会の絵

博物館や美術館で、特に大きな展覧会をやっている時は人でごった返している。

 

私も含めて多くの人にとってはその会場でしか見られないものだから、行列に耐えても見たいという気持ちはよくわかる。

 

だが、ふと我に帰ると、なんでこう、展示品を皆でありがたがるかのように、初詣のようにして並ぶのだろうか、という疑問も湧く。

(博物館に初詣という企画もそういえばありますね)

 

展示されるものの分野にもよるけれど、そこに品が展示されている、という状態こそが不自然な気もする。

 

たとえば美術品にしても特定の殿様のために作られたものが城から運び出された状態であるのとか、実用的な日用品として製作されたものに至っては展示されて全く使われないとかいうのは、品そのものの文脈からの孤絶や疎外であり、作品の生態系からの剥奪とも言える。

 

だが、その不自然な状態こそ、Natur(自然)の対極にある概念としてのKunst (芸術)の体現なのかしれない。

何もドイツ語を使わなくても、アーティフィシャル(人工的)という単語に既にアートが含まれているけれど。

 

そう考えると、作品はある種不自然な状態に置かれて初めて、芸術品として扱われ、美や何かしらの価値観の規範として存立しうる、だから人は展覧会の絵に参拝に行くのかもしれないと思う。

英国ナショナルシアターライブ シェイクスピア『オセロー』

映画館で舞台の上映記録を見た。

英国のナショナルシアターでのシェイクスピア作『オセロー』。

この演目は本でしか読んだことがなかった。

字幕付きの舞台映像で見ると、相当陰惨なセリフ劇だ。外題役のオセローをはじめ、登場人物の苦しみは血生臭い程だ。

シェイクスピア原作のヴェルディの歌劇『オテロ』が音楽によっていかに作品にカタルシスという名の娯楽味を与えられているかがよく伝わってくる。

舞台装置は抽象的なもの、衣装はある程度現代的なものではあったものの、セリフに字幕がついてあったこともあって、本で読んだ設定から大きく乖離しているという印象もなく、個々の登場人物の役作りが見事なこともあって、物語の世界に惹き込まれた。

世論や社会を表しているだろう群衆が、暗い照明しか当たっておらず、あまり大写しにもならないので、そのあたりの演出効果は映像で減じていたのかもしれない。

それでも、映画館で日本語訳で見ることのできる機会はありがたい。

 

NTathomeという家庭のPCでナショナルシアターの公演録画を見るサービスの宣伝もあったが、そちらはおそらく(あったとしても)英語字幕だと思われる。(違っていたらご指摘ください。)
そうなると、シェイクスピアのような英国古典よりも、翻訳劇の方が言葉遣いがわかりやすいという現象がありうるかもしれない。

 

よくかめよの歌〜映画『窓ぎわのトットちゃん』

アニメ映画『窓ぎわのトットちゃん』を見た。

言わずと知れた黒柳徹子さんの同名の書籍を元にしている。

 

トットちゃんが通っていた「トモエ学園」の食事の教育が興味深かった。海の物と山の物をお弁当に入れるのさえ、戦争の激化で困難になっていく。

 

また、「良く噛めよ、食べ物を」という、食事の時に歌う歌を放課後歌っていたら憲兵だかに「卑しい歌を歌うんじゃない」と脅される場面も印象に残った。

洋楽風のメロディの歌だったからかもしれない、と最初は思ったけれど、あとでよく考えたら多分違う。

 

おそらく、「ぜいたくは敵だ」とか「欲しがりません勝つまでは」が標語の時代だから、食べ物の歌を飢えた子供が歌うことまでが強欲で卑しいように憲兵には響いたのだろう。

最初はそのような想像にも至らなかった自分の不明を恥じる。

 

戦争中の標語と言えば「撃ちてし止まん」の止まんの主語は、「戦」なのだろうか?

敵に向かって弾を撃って倒してこそ、戦が終わるという意味なのだろうか?

詳しい方に教えを乞いたい。

 

とまれ、日本語にも、標語にも、時には隠された主語があるのだと思う。そして時に、標語の主客の曖昧さに、人がつけこまれることも起こり得るのかもしれない。

 

戦争を決めたのは一部の人たちであっても、その決定を、もしかしてある意味すすんで実行したのは名もない大勢の人たちだったのかもしれないと、行進の場面を見て気付かされた。

はじめまして

文学を学んでいます

ここではその合間に見聞きした物事について少しだけ書いていこうと思います

勉強の合間に気づいた勉強法のヒントやアイディアがあったらそれについても書くかもしれません

よろしくお願いします