宮本亜門演出『サド侯爵夫人』
戯曲の登場人物の設定は全員が女性である「サド侯爵夫人」。本公演では、全員を男優が演じている。
男優による異性装(特にサン・フォン夫人とアンヌはかなり露悪的で奇抜な衣装)という要素が加わったため、いわゆるSMを巡る種々の言説が展開される本作に、よりセクシーでクイアで倒錯した印象が強まった。
サディズムやマゾヒズムと異性装を共に倒錯として同列に置くのはどうかという意見はあるだろう。
しかし男優たちの、(純白をまとった主人公ルネ以外の)黒く妖しい衣装や、物理的に近い距離で展開される濃密な対話や強調されたしぐさは、他の演出にも増して異様さを放っていた。
異様ないし異端がひときわ強調された今回の劇世界においては、男らしさ/女らしさは転倒し、役として自然体でいることの良し悪しといった価値観さえ議題の後景へと遠のいていくのである。
「サド侯爵夫人」の多くの演出は、"汚濁を集めて"作り出された"神聖な"台詞とも言うべき、三島由紀夫のテクストに敬意を払うあまり、こうした"異様さ"が欠けていた。耳に心地よい山の手言葉の洗練を極めるあまり、ともすれば劇中のやり取りが"性をめぐる異端の言説"だということさえ、時に忘れさせてしまうきらいもあった。
宮本亜門演出は、それを決して忘れさせない。観客の目は、ほとんど常にそれを巡るやりとりを観ている。たとえ、(黒ミサをめぐるサン・フォン夫人の長台詞の演出のように)時に説明過多だとしても、全体的に小気味良く対話が展開されていく。
この公演全体を通して、サドの思い、三島の思い、役の思い、演出家の思い、演者の思い、そして観客の思いが多重写しになり、極めて奥行きの深い印象を与えたことは特筆すべきであろう。
舞台の最後、あっと驚くような演出が待っていた。さかしまな劇世界に相応しく、何かを信じることの重さと軽さを同時に説くかのような問いかけを残す幕切れにも思えた。
1月17日 紀伊国屋サザンシアター
映画『桜姫』
ストリーミングで鑑賞。
鶴屋南北の歌舞伎『桜姫東文章』を原作にしているということで興味を持った。
映画の感想サイトでは散々な評判だったが、大変面白い映画だと思った。
原作のあらすじや映画版ならではの改作した筋を説明しようとする方向性が希薄で、確かに見ても意味がわからないと思う観客は多いことだろう。また演出が大変に下品で見ていて不快感を感じる人もいることだろう。
だが、これこそが歌舞伎、これこそが南北と言うべきなのかもしれないのである。阿国踊りに起源を持つ歌舞伎は常に表現の規制と戦ってきた。また南北の劇世界においては、卑俗な禁忌を舞台の上に持ち出すことで新しさが演出されてきた。
だからこのように下品で型破りな映画は、歌舞伎の精神や鶴屋南北の精神に適ったものであると言える。歌舞伎の原作を知っている人は映画を見てみると良いと思う。あなたの美学の試金石になるであろうから。
ジョン・アダムズ 歌劇「ドクター・アトミック」
MET ライブビューイング アンコール2024 で、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で2008年に上演された、ジョン・アダムズ作曲、ピーター・セラーズ台本のオペラ「ドクター・アトミック」の公演映像を映画館で鑑賞
大きな歌劇場で生で見るのと違ってカメラ越しだと、歌手、合唱の一人一人に至るまで表情がよく見える。
(クローズアップの対象は編集に委ねられてしまうが)
オッペンハイマーは戦争終結を期待してか、あるいは未知の技術の発見に燃えてか、最初だけは明るい表情を見せるが、あとはほぼ終始苦悩している
ジョン・アダムズの音楽は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を思わせる効果的な管弦楽法と、乾いたリズムを強調した作りが、原始というより原子・分子を想像させるから不思議である
原子力爆弾がそれまでの歴史にあった兵器とは全く異質な、次元の違う発明であることは音楽から物凄く伝わってきて恐ろしい
また、アリアや重唱で時折長く伸びやかな旋律が登場するが、決して甘くならず、むしろ苦悩の苦味を感じさせる
劇中、核実験を行う側の苦しみがこれでもかとばかりに強調されるが、幕切れの無表情な日本語音声は衝撃的だった
観客はこの実験の向こう側に、どんなに多くの犠牲が原爆によって引き起こされたか、待ち受けていたかを知っているから、このように簡素な音声でも十分に効果的なのである
むしろ、最後の音声が唐突かつ無表情であることで、登場人物である核開発関係者の想像力の乏しさを想像させるのだから、優れた演出であると言わなければならない
見ていて大変気が重くなる作品だが、原子力の持つ恐るべき力を、美しささえ付加して表現した、極めて独特な歌劇作品だった
博物館と啓蒙の光
神護寺展で仏像に手を合わせてお辞儀してから鑑賞しているお客さんがいた
そういうお客さんはそんなに多くない
それは作品が製作された本来の目的にかなった拝み方と言えるが、そもそも寺院の暗がりから引きずり出して、展覧会場の照明の下に並べる、ということ自体が、本来の目的の冒涜であり、神性の剥奪行為なのかもしれない
とはいえ、啓蒙とは文字通り「光」を当てることだから、崇拝ではなくて知ることの対象として並べられるのは、博物館にふさわしい振る舞いだと思う
これが純粋に「美術」の展覧会となると、知的な探究や分析というより、美的な嘆賞の対象となり、ある意味では信心を持って再び崇められる対象となってしまう
それは芸術なら何でもありがたがることと似て少しナイーブ過ぎる気がする
だから日本語として、「美術館」より「博物館」の方が私は好きだ
作品を見る姿勢が、より自由で新鮮かつ鑑賞者にパラダイム転換を迫るのが博物館なのである